結葉

サンデールームの夏のイベントを企画しながらふと目にとまった言葉です。結葉、musubibaと読みます。葉と葉が重なり合って、結ばれたように見えるさま。大きな木の下で空を見上げた時に葉を通して届く光のきもちのよさは、幼少の時から変わらない感覚です。手を両サイドに開いて胸を高くその光にあずけると、願っていたことや望みが湧いてくるものです。

ということで、一句したためてみました。 結葉は天(sora)とわたしの出入り口

6月30日夏越しの大祓。淡々と暮らす日々の中では、カレンダーの数字のようにバシッとインフォメオションしてくるものは情報としてやや強く、個人的な感覚としては勝手にエスカレーターに乗らされている感があります。みんな一緒だから当たり前に乗っているけれど、あれ?わたしこれは乗ると決めていないんですけど・・・みたいな感覚。いつからか、そのエスカレータから降りました。なので、どんどん人には抜かされていくし、社会の流れには取り残されるかのように進みは遅いのですけれど、遅いなりにも歩みつづけてきた道は経験として、自分の中に積み重なりました。そんな中、旧暦とか月暦というのを人から紹介され、取り入れてみるものの、確か自然のリズムはそこにある。月の満ち欠けに沿って女性の生理がくるように。だけれど、社会生活とはかなり分離されているから難しいと感じていたのは10年くらい前の話、そして今のフィーリングに二十四気(にじゅうしき)がしっくりなじみます。何度かコラムに書いてきましたが、わたしは田舎暮らしや農的暮らしをしているわけでもなく、地方のごく普通の都市生活をしています。それでいて二十四気のフィーリングがあうのは、自分という自然の存在を大切にして生きてこられたからなのかなと思います。

「自然栽培との出会い」これは買って食べるとか育てて食べるとかということだけではありませんでした。初めは出会ってその美味しさや今までの有機農産物とは一線をひいた、思考では説明のつかない魅力を感じ、その理由を知りたくてとにかく野菜をさわって、切って、見て、料理して食べまくりました。そのうちに、農産物が育つ様子が見たくて土に触れたくて、農業研修にいくことにしました。そこでは、自然栽培で農産物が育つ生命の仕組みや自然の摂理を畑作業と講義での学びでした。農家になるわけでもないのにそこへ行ったのは、料理をしたり食べた時の感覚が、それまで食べていた無農薬や有機栽培農産物との違いに驚いてどうしてもその理由を知りたかったから。過去10年近くお世話になり尊敬し、大好きだった農家さんたちの野菜やお米と、自然栽培農産物との違いが自分の中で整理ができず、理解を超えたものであり、こうなったらもうこれは学ぶしかないと思ったからです。それから、今も学び続けていますがますます面白くて仕方がない世界です。「自然栽培との出会い」出会うだけでなく、共に生きられるように私は産まれる前にきっと設定してきたのですが、そんな私にも知ってから10年くらいは足を踏み入れずに遠くからきっと私には入れない世界と制限をしてきた過去があります。だから、一歩足を踏み入れずにいる人たちを見ると「こっちへおいでよ」と手招きしたくなる。

この手招きはこっちがいいという理由からではありません。人はみんな自分で決めて人生を歩んでいると信じていて、誰かがいいと言ったとか例えばできないのを家族や社会やお金を理由にする話なんかよく聞くけど、わたしはそれもみんな本当は自分で全部設定して決めていると思ってます。だから、私が何をしなくてもいいのだけれど、私がいつでもどこでも手招きする理由。それは、制限をしていた当時の私のブロックを解除してくれた人たちへの感謝のきもちからなのです。解除してくれた人たちというのは、自然栽培的な生き方を実践する方もいれば、全くこのことに興味関心もない方もいて、これもまた人生のおもしろいところだと思います。

シーソーがあって、右と左のどちらかにいれば、つまりは二極化と言われるどちらかにいればシーソーが地面について安定して楽なのだそうです。確かに、一点のポジションを与えられてずっと定位置にいればそれは楽。だけれど、私はなんかそれは違うなーという心の奥底から湧いてくる渇望を今見出しています。なので、二極化という考えには同調していません。結葉の葉のように人と人とが重なり合ってふれあう場にいて、横のつながりにとどまらず同調しすぎず、上とのつながり(自分とのつながり)を強固にしたいと願う、夏越しの大祓です。