自然との一体感、そして秋の味覚

今年はカフェを再開したこともあり、なかなか産地へ足を運べずにいました。自然栽培の果物もっとほしい、そういったお声が耳に届くようになり、野菜ももっとほしいなどおそらくそれは私の心の奥からの声でもあったりするのですが、9月末のある日久しぶりに産地へ出かけました。

これがまたやっぱりとてもうれしくて、うれしくて。畑で枝からもいで食べた葡萄、畑でコンテナに腰掛けていただいた葡萄ジュース、甘さと酸味とみずみずしさとが幾重にも層になって感じさせてくれるようなダイナミックな味わいでした。その味に感激して、なぜだろうと想像してみたところ、畑で食べる農産物ってやっぱりとてもすばらしくて、というのも生産者がそこにいて栽培に対する思いや苦労も含む履歴が丸ごと感じられて、畑に立たせてもらえてそれも素敵なことだし、生産者と畑という自然と私とが一体となるから、そこでの味わいは美味しさの極みなのです。葡萄は食材店に入荷していますので一度味わってみてください。

コロナかどうか検査をしていないのでわかりませんが、夏になるちょっと前に風邪をひきました。その時、コロナ感染でよく言われる味覚と嗅覚に変化を感じ、驚きと不安で今もまだその気持ちを引きずるくらい衝撃でした。私たちは何かを食べる時、手で食べるときは別として、目で見た目、鼻で香りと、口の中での触覚と味覚とで瞬間的に何らかの判断をしますが、その判断の軸が変わったような気がしてなりません。引きずっている衝撃というのは、その軸の変化に戸惑っているような感じです。そんな中、自然栽培農産物は大きな助けでした。毎日食べている自然栽培の農産物は、味の濃さや旨味のつよさで表せる味だけで選んでいなくて、私の場合は口の中で心地よいかどうか。喉を通るときの違和感がないか、ごくごく個人的な私なりの味覚でした。誰かと比べたり、合わせたりすることができない私だけの感覚。誰にとっても、食べるという行為においては当たり前の話ですね。でも、その軸が変化すると人と比べられるものでもないし自分自身の中での変化なので「あれれ?」と不安になるのです。軸が変化している最中に、違和感なく食べられたのは自然栽培のお米。とても助けられました。

味覚と嗅覚の変化で今も続いている、不自然に作られたものや、添加物や調味料を多く使われたものに味がせず、逆に臭いをつよく感じるようになりました。味がしないと美味しいと感じられないから、食欲が減ります。ゆえに、自然と体内に取り込めなくなりました。味覚と嗅覚が、体内に入れてよいかそうでないかという防衛反応として機能が増したみたいです。以前から、味覚よりも食感や喉越しで食べ物の好き嫌いを判断し、自然栽培農産物を選ぶようになった経緯がありますが、さらに食の好みがはっきりしました。今日食べたいもの、食べたくないもの、何が必要か不要か、選びやすくなりました。それから、不思議なのですが、柔軟剤の匂いには今まで対面すると失神しそうになるほど苦しかったのに、どこか遠くに感じるくらいの許容範囲が増えました。過去に感じていた失神しそうな苦しさも忘れていないので、時折嫌だなあ〜という気持ちもわいてきて気分も悪くなったりはするので、複雑です。でも、現代社会で柔軟剤を香るたびに失神していたら生きていかれないので、逃げ隠れせず現実社会で生きなさいよと大いなるものに言われているのだと、この変化した嗅覚判断軸を受け入れています。

今日も私なりの感覚なお話、勝手なつぶやきでしたが、今日のコラムで一番お伝えしたかったことは、葡萄畑で感じた幾重にも感じた立体的な味覚でに感動したというお話でした。判断の軸が変わったかのように感じて、この数ヶ月不安だった自分の感覚を信じられたのは、やはり私にとって大切な瞬間でした。産地での感動をどうにかして伝えたくてサンデールームでごはんを作り、食材店を始めました。私はその感動をちゃんと伝えられているでしょうか?まだまだ、できることがあるような気がしています。これからの仕事へ生かしていきたいと考えています。