自然栽培の世界へダイブ

4月になって、サロンには新生活、新入学、新しいステージに立ったよと報告かねて遊びに来てくださる方が、常連さんだけでなくお久しぶりに顔を見せてくださる方々がいて、春らしい躍動感を感じます。お店ですから、お話を聞かなければ、ものをお渡ししお代をいただいて「ありがとございました」で何も知らないままになることもあるけれど、今月は佐賀県の横田茶園さんの紅茶を試飲していただくこともあって、自然にゆっくりお話をする機会になっていて、それもまたゆっくり楽しいひとときです。

横田茶園さんには遠くて私はまだ訪ねたことがないのですが、お取引はかれこれ5年くらい前にさかのぼるかもしれません。出張で九州を訪れた妹が仕事先で横田茶園さんを紹介されたとかで、すぐさま私はHPで検索しました。当時のHPには自然栽培の創始者の岡田茂吉さんの教えが書いてあり、自然栽培を理解して取り組まれている農家さんなのかなと思いで、産地を訪れる前にすぐさま連絡をし、お茶を分けていただくことにしました。なのでまた、畑に伺い、農家さんにもお会いしたことがないのですが、メールのやり取りだけでお取引をさせてもらっています。

横田さんのお茶は風土にもよるのでしょうか、他に扱っている奈良の自然栽培のお茶よりも味が濃いめです。なので、いわゆるお茶好きな方にも好まれるようです。紅茶も和紅茶ならではのやさしい感じだけでなく、渋みや香りもしっかりと、外国の紅茶好きさんやミルクティーにして、飲んでいただけるのではないでしょうか。今回4種類の紅茶が入荷していますので、それぞれお楽しみいただければと思います。

この4月は、宇都宮での「自然と調和したいきかた」連続講座に通うようになり半年が過ぎました。この連続講座をスタートするあたり、これまで全くと言っていいほどご縁のない栃木ですから、心当たりある自然栽培に関係している方にお声かけ、準備を始めたのが昨年7月頃だったと思います。8月に開催予定だったダイジェスト講座が緊急事態宣言の発令で開催2日前に中止になり、その後の連続講座に際し思い描いていたプランも早々に頓挫するなど、なんとも当てが外れてのスタートでした。その時に思ったのは、サンデールームという場を20年かけて作ってきてよかったと思うのと同時に、一歩店の外に出ると何もできない無力感もしっかり味わうことになりました。

半年以上かけての講座での学びに私はとても価値をおいています。実践するしないは各自に委ねられてはいるものの、今までの常識をくつがえされるので、人によっては信じていた価値観にお大きな揺さぶりがかかるかもしれません。10年前から、サンデールームで講座を開催し続けてきましたが、始めたばかりの頃の私は、講演会場を出てそれぞれのホームへ戻った時にみなさん大丈夫かな・・・と心配になるのが常でした。講座で提案している、自然と調和した生き方は、まだ今の社会とは常識が真逆だったりすることが多く、初めのうちは無理に貫こうとして大変な思いをされる方もいるのではないか、とか、孤独になっちゃうのではないか、とか。実際、農家さんが自然栽培を始めたばかりの時に周囲とのギャップで起きてくる問題、家族間での考え方の違いが出てきたり、農家さんでなくても、それまで薬を飲んでいたのをやめて身体に症状が起きてきた時に実施にどのように捉えて対処するか、などなど、周囲との関係だけでなく自分自身への関係において、いろいろが出てきます。「講座の内容を素晴らしいお話だった」「河名さんの生き様はすごいですね」で終わらせ、知識や情報をいいとこどりに使うのであればそれほど揺さぶりはないでしょう。講座で得た知識や情報を鎧や武器として使い、外側への批判に使うことでかえって楽になる方もいるかもしれません。でも、それでは講座での学びが、外側と内側とにラインを引き、内側にいる私は無関係と生きてしまうことになるのは、なんかもったいない。本当のところは、今まで信じていた価値観が大きく揺さぶられ、自分の中から答えが出てくるのを実践しながら待つことをおすすめしたいのです。まずは揺さぶられてほしいと思います。

準備の段階で、自然栽培農産物を日々の糧にするのは理にかなっています。自然と調和して育った農産物をその仕組みごと食べちゃった方が世界観を体感するには早いかなという理由です。自然栽培農産物が無肥料無農薬だから、環境と身体にいいという発想ではないことをここではっきりお伝えしておきたいと思います。

講座の始まり、著書の中でも、河名さんはいつも言われます。「僕の話をうのみにしないでください、自分で考えてみてください」こことても重要なポイントです。「うのみにしない」ここはまあ理解できます。「自分で考えてみてください」これはどうでしょう?なかなか難しいのではないでしょうか。学校では暗記することや知識を入れることに熱心で私たちそれなりに上手にやってきましたが、考えるに関してはどうでしょう。たとえ考えても最終的には正解を導き出すため多数決でどちらかに決めるというオチがつきものだったし、2つの違う考えがあったときにはどちらが正しいかを考える癖がついてしまっていますよね。両方を理解して、第3の答えを導き出すような考え方はしてこなかった。どちらもまあまあいいように収めるような方法を考えてきたくらいです、せいぜい。いいか、わるいか、正しいか間違っているかの2択でものを判断する癖、その上、反対の考えを持つ人とはあまり話をせず、同じような考えの人となんとなく同じで気が合うとか、仲良しとか言って、もし疑問がわいてきても考えないですむような状況に器用に身を置いてきましたね。考えることを放棄してきたとも言えるかもなあと思います。どこか他からの考えを持ってきて、それを自分で考えたかのように思っているだけで、自分の中から答えが出てくるのを待つのなんてしんどいから、そうやって私たちは生きてきてしまったのかなという気がします。

考えて、答えを導き出すのにそれ相応に時間が長くかかります。答えが出て実践して、ああ間違えだったとまた考え直して実践して、その繰り返し。それが数年続いたりもします。だから、私たちはそうせずにすぐに答えを出して、楽になろうとする。なんかそれではインスタントだなと私は思っていて、なんか物足りない。疑問というか、違和感に蓋をせずに持ちつづけることに私は大いに意味があると思っています。

私にとっては小学校4年生だったかの授業で、菜園でとうもろこしの種を撒いた時のショッキングピンクの色がずっと心に残り、当時は納得できなかった疑問に、今やっと答えられるようになりました。あの時、担任の先生が消毒ですと答えてくれたけれど、その答えでは私は納得ができずにいました。今、振り返れば、あの疑問が私のモチベーションとなり、もっと言えば幼少の時から偏食だったことが今の仕事に至る食への探求の道へとつながっています。「消毒です」という回答では満足が出来ず、探究する過程で農業や身体に関する疑問にもたくさん出て来て、出会った人たちや本に問いかけたところで、納得できる答えは得られなかった。それが今ではよかったと思っています。学校では教えてくれないとよくいうけど、そもそも答えは人から教えてもらうのではなく、自分で考えるところから始まるのですから、それを考える場や待ってくれる社会が必要なのではありませんか。今、私は、誰かが教えてくれる答えでは納得せず、かといってその研究を熱心にしてきたわけではないけれど、どこかで考え続けてきた私を褒めてあげたいと思っています。そして、わけもわからないまま直感に従って、自然栽培の世界へ飛び込んだ私によくやったね!とこれからの歩みをまた考えはじめている、そんな始まり4月です。